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自衛隊の「沖縄戦での住民避難」批判 04・9作成


 鳥取県の自衛隊幹部による講義の中で「沖縄戦における避難」が教訓として取り上げられ、そのことが現在進められている「国民保護法」の避難計画に利用されようとしているが、その解釈や分析に多くの間違いや問題があり、黙過できない。

 彼らは、沖縄戦の経過のなかで、住民避難において不手際があり、その不手際に基づく避難計画を教訓とすべきであると言う。そのことをふれるなかで、指摘して行きたい。沖縄本島に関する初歩的な記述でも数字等のミスが多いが、ここでは沖縄戦に絞り、沖縄戦の経過についてその事実を確認したうえで内容について触れることにする。
1
「沖縄戦の経過」について
2
「県外疎開の状況」について
3
「県内疎開の状況」について
4
「戦場での住民避難」について
5
「国頭地区の状況」について
6
「島尻地区(南部地域)で、住民に大きな犠牲が生じた原因」について
7
「住民避難にあたって、着意すべき事項」について
1 沖縄戦の経過の違い

自衛隊資料から作成 各種資料をもとに自衛隊の図と同じに作成


参照「詳細沖縄戦の経過」

2 県外疎開の状況
項目
沖縄県警
自衛隊幹部資料
昭和19年7月7日
南西諸島から老幼婦女子を本土と台湾に疎開
(政府閣議決定)
昭和19年7月7日政府緊急会議
→南西諸島から急いで老幼婦女子を本土と台湾に疎開させることを閣議決定
目標
沖縄から本土に8万人、台湾に2万人の計10万人を7月中に疎開
○本土に8万人、台湾に2万人の計10万人を7月中に疎開。
○県は直ちに第32軍と協力して疎開計画を立案
予算措置
1500万円を計上
1500万円を計上
疎開者の輸送
-
沖縄に軍の部隊や軍需品を輸送した帰りの空船を利用
法的に拘束力
-
「勧奨」形式
疎開業務
1警察部の主管で「特別援護室」を設置
ア、疎開業務開始について県民への広報
イ、必要経費の獲得
ウ、海上輸送船舶の確保
エ、疎開者受入れ先との連絡調整
オ、便乗する船舶の指定と乗船人員の決定、乗船、出港
○所管は警察部とし、警察部内に特別援護室
・室長(地方事務官)以下、警部2、警部補3、巡査部長及び巡査数名。
・内政、経済各部から属官、雇員。
・地方の第一線業務…各警察署が担当、市町村長を督励
・学童疎開…教学課の一部を援護室兼務。。

2地方は地区警察署が担当、市町村長、学校長の督励を行い、業務を推進。
○7月21日、第1陣が出発
○8月22日対馬丸の悲劇で振出に戻る。
○19年の7月中旬、疎開第1陣が出発
○8月22日対馬丸の悲劇疎開業務が振り出しに戻る
業務の実態
○10月10日那覇大空襲で数万の九州疎開希望者が殺到
○19年10月10日那覇大空襲住民の疎開意欲が高まり、

○昭和20年3月中旬まで島外疎開を継続
昭和20年3月上旬まで島外疎開を継続。

○延178隻、輸送人員は約6万人。

計画の遅れ
-希望者が少なかった
○老人、幼児、婦女子だけの疎開地での生活不安
○県民の疎開に対する不安
・老幼婦女子だけの疎開生活・沖縄からの送金や物資

○潜水艦の攻撃
・米潜水艦の脅威

○続々上陸する我が軍の威容に接し、歓喜するとともに戦いには必ず勝つ、と思い込む者
○県首脳部の熱意不足…I知事「個人的には引き上げの必要はないと思う。」と発言
結果
○県外6万人、台湾に約2万人。
予定の80%(8万人以上)が県外に疎開。
※上の表は、沖縄県警と自衛隊の県外疎開に対する分析を整理したものである。
県外疎開希望者が少なかったのはなぜか
両者において、「疎開の遅れ-希望者が少なかった」ということで沖縄戦における疎開(避難計画)がうまくいかなかったという結果とその理由においておおかた一致しているが、その理由の一点だけで見解が異なる。

 沖縄県警は「続々上陸する我が軍の威容に接し、歓喜するとともに戦いには必ず勝つ、と思い込む者」という表現で、当時の沖縄県民の多くが日本軍の沖縄上陸を心強く思い、軍隊とともにいることが安全だという気持ちになっていた、と分析する。確かに、県警の荒井警察部長が第32軍に対して、「軍隊側が戦いに勝つ勝つと宣伝されるので住民が動かないので困る。なにとぞ駐屯の将兵は景気のよい言葉を慎しみ、住民が疎開するよう協力して貰いたい」旨、申し入れるほどであった。

 一方の自衛隊幹部の見解は、「県首脳部の熱意不足」として、当時のI知事(泉知事)の疎開への消極的姿勢を問題にしている。泉知事は第32軍との関係でもあまりうまくはいっていなかったし、10・10空襲のときは中頭の自然壕に自ら退避し、県庁をそこに移すとまで言って周囲に不信感を与えたほどであった。昭和20年1月31日、泉知事の後任として島田知事が着任してから県行政の戦時体制は一変したという。

どちらが本当の理由か

さて、どちらの原因が県外疎開を遅らせたのか。それぞれの持つ理由はあろうが、そのいずれも県民の真の気持ちを捉えているとは言いがたい。

自衛隊幹部のあげた泉知事の消極性については、実際の疎開業務は県警が進めていたことから、県民の気持ちに直接的な影響はなかったと見る方が妥当である。疎開を渋った証言等をみても、このような点にはほとんど触れられていない。どちらかというと、県民の反応は県警が指摘しているような日本軍の近くにいるのが安全であるという気持ちが強かったようである。

しかし、県警の指摘する「日本軍に対する好意的反応」にしても、当時の県民の気持ちを十分には捉えてはいない。それは、当時の国民や沖縄県民が大日本帝国の中でどのような位置にいたかということと深く関わっていて、その置かれた状況と切り離しては捉えられない。

ひとつは、「皇国不滅、皇軍不敗」という神話が国民全体に浸透していたことである。32軍が編成され、その部隊が沖縄に入ってきた時、すべての公共建物(学校、公民館等)は接収された。のみならず、大きな民家も日本軍の将校宿舎にあてがわれて、住民はその世話までさせられ、徴用や供出が重なる、というように第32軍の動員に応じている。半強制的な動員に対して、住民の多くがそれに従っていったのは、不敗の皇軍が身近にいることへの信頼感があったからであった。当時の県民は第32軍のことを「友軍」と呼んだ。もちろん、それはおおかたの県民がそうであったということであって、なかには、逆に「兵隊のいない所に逃げろよ」と注意する住民もいたことはいた。

真の原因は32軍の方針

 もう一つは、沖縄県民独特の事情があった。それは、日本という国家の中での沖縄の位置づけである。薩摩の支配以来、いや、少なくとも明治以来、沖縄は、国家の枠組みの中で常にその外に置かれてきた。国家的都合によって沖縄の位置づけが決定づけられていたし、そのための差別的疎外感もあった。その一方では、皇民化教育に見られるような沖縄の本土化=皇民化の激しい押しつけが行われた。

 したがって、沖縄戦における第32軍の駐屯はより多くの県民にとっては沖縄に対する差別的疎外感の深い溝を埋める機会として捉えられていた。それが皇軍としての日本兵に対する好感度を上げることによって達成できると考えられていたのである。その表現の一つが「友軍」という呼称であったろう。しかも、その好感度は一方的な思いではなく、当時国民が一般的に考えたような官民一体の戦う気構えを備えたものであった。

したがって、友軍がいるから安心という受け身ではなく、自らも戦いに命を捨てるという側面もあった。折しも、第32軍の牛島司令官は、「現地自活主義」を沖縄戦の方針の一つに掲げて、県民のその気持ちを最大限に利用した。制海権を奪われた離島県である沖縄で、戦闘が行われることの必然として第32軍の方針と県民に対する皇民化教育の集大成が合致したと言えよう。

 この「現地自活主義」によって、使える者(または物)は徹底的に使い、そうでないものを切り捨てるという真のねらいは、閉ざされた島の少ない食料の口減らしであった。しかし、前者のために疎開要員を大きく制限したことが、後者の疎開希望者を少なくするという自己矛盾をもたらしたのである。したがって、沖縄戦における疎開計画は「非戦闘員」を戦場から排除すると言う単純な「避難計画」ではなかった。そのことが自衛隊幹部の「島外に疎開できたのは、老幼婦女の一部」という分析が出てくる所以であるが、その方式(方針)は県外疎開だけでなく県内疎開(北部への)においても同様に貫かれたために、県内疎開でも希望者は少なかった。

3 県内疎開の状況
第32軍と県は、非戦闘員の島内疎開を計画したが、そのなかで、第32軍が示した方針は次のようなものであった。
1
凡そ戦闘能力ならびに作業能力の有る者は、挙げて戦闘準備及び戦闘に参加する。
(戦える者、また働ける者はすべて戦闘の準備や戦闘に参加する。)
2
60歳以上の老人、国民学校以下の児童ならびにこれを世話する女子は、昭和20年3月未までに、戦闘を予期しない、島の北部に疎開する。
(60歳以上の老人、小学校6年生以下の子ども、それらを世話する女子は、3月末までに北部-国頭地方に疎開する。)
3
各部隊は所属自動車その他車両、舟艇をもって、極力右疎開を援助する。
(日本軍の各地域にある部隊は持っている車や舟で疎開を支援する。)
4
爾余の住民中、直接戦闘に参加しない者は、依然戦闘準備作業、農耕、その他の生業に従事し、敵の上陸直前、急速に島の北部に疎開する。
(残った者のうち、戦闘に参加しない者は、戦闘の準備、食料増産、その他の仕事をし、敵が上陸する直前に急いで北部-国頭地域に疎開する。)
5
県知事は、島の北部に疎開する県民のために食糧を集積し、居住設備を設ける。
(知事は、疎開住民のために食料を集め、避難住居を設営すること。)
これを見ても分かるように、県内疎開でも、「現地自活主義」の方針が貫かれ、役に立たない者のみが事前の疎開を許され、そうでない者は徹底的に徴用、供出、増産等に動員され、米軍上陸直前に「北部疎開」をすることになっていた。島の北部は山間地で、農耕地の少ない地域である。当然食料不足は目に見えている。疎開を躊躇した当時の人たちの証言の多くも食料の無いことを最も心配していたのである。

「各部隊は所属自動車その他車両、舟艇をもって、極力右疎開を援助する。」という方針も結局は「軍の車両や機帆船が疎開に利用されたこともなく、民間車両のほとんどが軍に徴用されたことから各個別々に徒歩で疎開したにすぎ」なかった(「沖縄県警察史第2巻」)。結局約3万人程度が疎開した。

裏切られて戦場に放置

自衛隊幹部の「住宅資材の収集、食糧の集積が不十分なまま戦闘が開始される。」という分析は、結果をそのまま捉えただけのことであって、第32軍による強圧的な供出によって県内にはすでに食料も資材もなかったという事実が欠落している。それを裏付けることとして、島田知事は、食料確保の折衝に自ら台湾に渡って調達したが、その船も米軍の攻撃で沈んだ。米軍が上陸し、島を南北に分断した後も食料を確保するために、北部から南部に戻る住民も多く、中には米軍の砲弾の犠牲になった人も多い。自衛隊幹部の「疎開計画の裏付けとなる住宅、食糧の斡旋不十分」という捉え方は実態の原因を無視した表面的な捉え方と言えよう。


 さらに、「敵の上陸直前、急速に島の北部に疎開」の方針も全くの空文句となり、第32軍は最後まで動員使役した多くの住民(防衛隊員や鉄血勤皇隊員、学徒看護隊、義勇隊員等を戦闘要員として動員した残りの一般住民)をも結局中南部の戦場に放置することになり、3カ月に及ぶ戦闘に巻き込んでいったのである。

4 戦場での住民避難
結局、県外疎開・県内疎開が許されなかった住民やその機会を失う羽目になった住民は、沖縄本島中南部の戦場に取り残された状況になったのであるが、住民のそれ以降の状況について自衛隊幹部の見解は次のように整理される。

米軍上陸~5月下旬の首里戦線での攻防までの間

首里戦線以南の住民は、官の指導に従い、全域にわたって食糧の生産確保、軍の後方支援への協力等を実施

首里戦線の放棄から島尻地区への後退間

住民に対して、知念半島地区に待避するよう指示。進攻する米軍との戦闘下、混乱の中での指示であり、待避は困難。

ア、住民の多くは、敵に降伏することを夢にも考えていなかった。

イ、米軍の追撃が知念半島方向に行われ、かつ日本軍が知念半島方面にほとんどいなかった。

ウ、住民の多くが軍主力を求めて、喜屋武方面に引き返す。
①「米軍上陸~5月下旬の首里戦線での攻防までの間」について
「首里戦線以南の住民」
このような設定では、本当の姿が見えてこない。

米軍が上陸したのは、現在の北谷・嘉手納・読谷の海岸であり、三日後には本島は南北に二分されている。その後の米軍の進攻に沿って、中頭郡(北)地域(現在の読谷村、嘉手納町、石川市、北谷町、沖縄市、具志川市、勝連町、与那城町、宜野湾市一部、北中城村、中城村一部)の住民は、米軍に投降し収容所で保護された者、北部地域へ逃げた者、南部へ逃げた者、そのままガマ等に隠れていた者というように対応が分かれていった。

しかし、宜野湾市嘉数高台、浦添市前田高地等において、日米の戦闘が長期化(4月上旬~5月中旬)したため、中頭郡(南)地域の浦添や西原の住民は、北部避難の道を断たれ南部避難を余儀なくされた。したがって、中部戦線(嘉数戦線-浦添戦線)の南下に伴って、この地域の住民(中頭北地域の一部住民を含む)は追い詰められるように南下して行ったが、首里や那覇の住民がそれに加わり、十数万が南部地域に移動する羽目に追いやられたのが実情である。

参照「詳細沖縄戦の経過-中部」
「全域にわたって食糧の生産確保」
 したがって、自衛隊幹部が指摘するように「首里戦線以南の住民は、官の指導に従い、全域にわたって食糧の生産確保、軍の後方支援への協力等を実施」というのは事実とは大きくかけ離れたものになっている。一つは「首里戦線以南の住民」では上記した中部の住民が欠落してしまうし、二つは「全域にわたって」では、まるで戦争が日米の戦闘(戦線)下においてのみ行われていることになり、沖縄本島全域にわたる夥しい空襲や艦砲が欠落してしまう。

 証言などにより、強いてそれに近い状況を挙げれば、この時期の南部・喜屋武半島一帯が挙げられる。しかし、それもまだ緑が残っていた、静かであった、という類のもので、中頭や那覇、首里の人たちが戦禍に追われて見たその光景に印象づけられていることである。地元の人たちはすでに避難体制に入っており、昼間はガマ等に隠れていて「食糧の生産確保」というにはほど遠いものであった。

 ただ、そのようななかでも、「軍の後方支援への協力等」はなおも続けられていた。炊事、弾薬運搬、使役、負傷兵の搬送等であるが、これとて「協力」ではなく強引な戦場動員であった。避難しているガマに区長や日本兵などがやってきて、年齢に関係なく、働ける者を日本軍の命令である、という一点で動員をかけている。すでに根こそぎ動員の後だけに、なかには13、14歳の男の子らや60歳を越す老人、病弱の男性、時には女性までがその対象となっていた。


[証言]
「五月の中ごろのことです。同じ壕の中にいた村長から、隣の部落にある陸軍の病院に手伝いに行ってくれないかという話がありました。弾薬箱を積み替えたりする仕事があるということでした。軍の仕事ができるということで母も喜び、同級生三人と上級生三人の計六人がその夜隣の部落に向かいました。隣の部落に着いてみると、なんだか様子がおかしいのです。すぐ夕食を食べて首里大名の第一線に行くようにということです。私たちは「話が違う。村長と話し合わんと行かん」と言ってがんばったのですが、だぶだぶの軍服を着せられゲートルを渡されて出発することになりました。ゲートルの巻き方も分からないので肩に担いでいきました。私たち六人と防衛隊の人が六人です。」(当時13歳)


②「首里戦線の放棄から島尻地区への後退間」(5月下旬から6月-筆者)について
「首里戦線の放棄」
「住民に対して、知念半島地区に待避するよう指示。進攻する米軍との戦闘下、混乱の中での指示であり、待避は困難。」
「首里戦線の放棄」は「戦線の放棄」ではなく、実際は「司令部の放棄」である。「戦線」と「司令部」ではことの本質が大きく異なる。この時すでに第32軍はその大半の兵力を失い、3~4万人程度しか生存していない。それでも牛島司令官は、住民を巻き込んだまま司令部を喜屋武半島に移すことに決定し、「最後の死守線」を喜屋武半島の付け根にあたる八重瀬岳-与座岳-国吉・真栄里の丘陵地帯に設定し、残存兵力を配備した。

参照「沖縄戦の経過-南部」詳細

知念半島はこの戦線で米軍を迎え撃つ隊形の約10㎞右手前方に位置する。つまり、「最後の死守線」の前方に展開しているそのような避難場所の安全性を誰が信じよう。現に米軍は艦砲を間断なく落としたし、上陸もした。しかも、その避難勧告は、警察の一部関係者や第32軍直轄の鉄血勤皇隊の一部の者などが、避難してくる住民に声を掛けているものである。中には、「お前はスパイか」と罵られた勤皇隊員もいるぐらいの状況の中での避難勧告であった。

 ちなみに県庁の幹部たち(知事及び警察部長一行)は、6月上旬喜屋武半島の「轟の壕」(旧真壁村在)に退避したが、その前の「6月3日、島田知事は挺身隊を3名ないし5名の小集団に改編し、避難民と行動をともにし、住民の保護に当たることを命じた」(「沖縄県警察史第2巻」)が、その「沖縄県後方指導挺身隊」もまもなく「轟の壕」内で解散となり、戦時体制をとった沖縄県庁は自然消滅となったのである。
ア、「住民の多くは、敵に降伏することを夢にも考えていなかった。」

 まるで、住民が自分の意思でそうしたかのような印象をあたえるが、これも結果をそのまま捉えただけの記述である。結果は事実だが、事実は必ずしも真実を表出しているとは言えない。住民(当時のおおかたの日本国民)の一人一人が自らそのような考えを持つわけがないし、それが国家的規模でそうなっていたことは、紛れもなく天皇制国家による教育と皇軍の持つ「軍人勅諭」精神の一般国民への押しつけであった。沖縄では、最も身近にいたのが第32軍の日本兵であった。

沖縄に配備された第32軍の牛島司令官は、最初の「訓示」で沖縄戦の方針を訓示したが、その七つ目に「間諜には厳に注意すべし」と配下の将兵に命令した。それは、「沖縄県民には気をつけろ」ということと同様である(その後いくつかの沖縄県民スパイ視の文書が出されている)。そして、一方では、軍民一体の戦いを言いつつ、「戦陣訓」や「軍人勅諭」の精神を県民に植えつけ、「米軍の捕虜になると、男は戦車で敷き殺され、女は強姦されて殺される」という風評を流し、あるいは口コミで伝えていた。そして、自らは、沖縄県民総スパイ視で住民虐殺を行い、「集団自決」へと追い込んでいった。参照「牛島司令官訓示」

 そのような中で、県民は、「米軍も怖かったが、友軍がもっと怖かった」という多くの証言に象徴されるように、日米双方への恐怖心で戦場を彷徨していたのである。実際に米軍に投降した住民が近くに隠れていた日本兵に射殺されたのを目撃した例は多い。確かに自らの意思で日本軍と最後まで戦おうとした県民もいたし、米軍への投降を勧める日本兵もいた。しかし、このようなことは極めて個人的特異な事例であって、沖縄の戦場での一般的な県民の気持ちは前述したとおりである。
ウ、「住民の多くが軍主力を求めて、喜屋武方面に引き返す。」
このことは次の二点で事実と異なる。

 住民が喜屋武半島により多く集まったのは、追い詰められての結果である。それは米軍の進攻状況によって理解できることである。したがって、「引き返す」という表現は適当でなく多くの証言が「右往左往」している状態である。どちらに行っても米軍の包囲網の中での銃砲爆弾の雨のなか(知念半島は日本軍の配備がなかっただけ相対的に少なかった)を何度も行ったり来たりしている。

したがって、喜屋武から知念・玉城に至る道(現在の国道331号線)は互いに交錯するように避難民が行き来している。ましてや「軍主力を求めて」なんて状況ではない。なぜなら、日本軍が「最後の死守線」を突破されて喜屋武方面に後退している頃は、すでに組織的戦闘はなく、敗残兵もしくはゲリラ化した日本兵グループが、あのガマこのガマで隠れている住民を追い出している状況である。(6月中旬以降)


「知念半島への待避が円滑に行われなかったことが、住民に多くの犠牲を生ずる原因」
したがって、自衛隊幹部がたどり着いた結論としての上記の指摘は、事実を語っているが、それは単なる結果論でしかない。前述したことに付け加えれば、知念半島が安全地帯として一定の担保がとれたのは、牛島司令官が司令部を喜屋武半島の摩文仁に移し、最後の「死守線」を八重瀬岳-与座岳-国吉・真栄里に設定した後のことである。

 5月下旬、牛島司令官は、首里司令部放棄の折り、新たな司令部開設について三案を将校たちに打診している。そのまま踏みとどまるのか、摩文仁か知念半島に後退するかであった。彼は摩文仁に決定したが、知念半島だってあり得たのである。つまり、知念半島が安全地帯であることの認識は、司令部の摩文仁移動決定後のことでしかない。したがって、自衛隊幹部が指摘する「知念半島退避云々」は、別に方策があったのか、という点から考えると無い物ねだりの観が強い。つまり、「住民に多くの犠牲」が「首里戦線崩壊」による中南部の避難住民の犠牲を指しているとすれば、その回避の大本は「首里司令部」の崩壊によって沖縄戦を終わらせることであったに尽きるのである。

5 国頭地区の状況
参照「沖縄戦の経過-北部」
[自衛隊幹部の見解]
国頭地区の作戦は遊撃戦的に行われ、全般的にその行動は住民と切り離して行われる。
疎開した住民は、個々の行動に陥り、敵手に落ち、あるいは山中を彷徨う状態に軍(国頭支隊)は、住民の生活、待避行動に対する指導を実施せず。(能力上、実施できず。)
さて、北部地域へ疎開した中南部の住民と地元住民の状況はどうであったのか。自衛隊幹部の分析でも、それ相当の状況が見えてくるが、認識の仕方にかなりの違いがあるので、やや具体的に整理すると次のようになる。

各種証言によれば、住民の最大の問題は食料問題であった。もともと耕地の少ないところへ、数は比較的少なかったが日本軍に対する供出も重荷であった。そこへ3万人の避難民が入り込んだために、食糧事情は一気に悪化し、食料に関する地元住民とのトラブルが続発した。

それに加えて、米軍の攻撃であった。島を取り巻いた艦艇からの砲撃は北部地域にも行われた。したがって、地元住民や中南部からの避難民も山間地への避難を余儀なくさせられている。北部地域も、第32軍がいうような「戦闘を予期しない」安全なところではなったのである。

米軍は、日本軍の若干の抵抗に合いながらも、掃討戦的な隊形で全域をしらみ潰しに掃討している。そのようななかで、住民は、それぞれの判断によって、米軍に投降したり、逃げまどったり、山間部に隠れたりしている。もちろん、米軍は住民に保護の道を選択させたが、抵抗する者には住民であれ容赦なく銃を向けた。


北部地域は特別任務部隊だった

日本軍は、恩納岳近辺に配備された第4遊撃隊(別称第2護郷隊)が、米軍の上陸戦線で何らすることなく退避した(作戦の一部)飛行場大隊等を指揮下に加え、米軍への応戦や米軍施設の破壊等ゲリラ戦を展開したが、国頭山中へ敗退した。一方、本部半島に配備された国頭支隊(宇土部隊)と多野岳に配備された第3遊撃隊(別称第1護郷隊)はゲリラ戦的な応戦をしたが、敗退後、組織的な戦闘はなく、北部の山中に散在した。

本来、国頭支隊(宇土部隊)は、第44旅団の歩兵部隊を中心に編成された部隊であった。第44旅団は、沖縄配備の途中徳之島近海で米軍によって撃沈され約4000人の兵を失ったため、現地招集や防衛隊員、青年義勇隊員、鉄血勤皇隊員らによる即席の編成部隊であった。ここで指摘されているように「住民と切り離して」の作戦部隊であったが、その意味は「秘密部隊」であったことである。

したがって、「住民の生活、待避行動に対する指導」などは全くの問題外であった。それどころか、「国頭支隊秘密作戦ニ閑スル書類」によれば、「一般民衆ハ勿論、自己ノ家族ト錐モ、本機関設置ノ趣旨、任務、企図等ヲ漏泄セサルコト。一般民衆ノ不満言動ノ有無、若シ有ラバ其ノ由因ヲ隠密裡ニ調査シ、報告スルコト。(意訳~一般人はもちろん、家族にも秘密にすること。一般人で不満な言動があれば秘密理に調査し報告すること。)」などから住民監視の役目を担っていたことが分かっている。さらに、住民を戦力化することも計画されたが、第32軍の崩壊が早かったために成功しなかった。

住民虐殺と県外逃亡

一方、「遊撃隊(護郷隊はその秘匿名称)」は、大本営直属の秘密部隊でゲリラ戦を主要な任務としていたが、その詳細については沖縄の第32軍でも掌握していない面があり、その存在についてさえ幹部級しか把握していない。沖縄戦では第32軍の崩壊後、ゲリラ戦に突入することが計画されていた。陸軍中野学校出身の将校が隊長となり、在郷軍人を幹部にして、県立第三中学、農林、水産学校生、青年学校生等を隊員にして特訓をした。第一遊撃隊(ニューギニア)第二遊撃隊(フィリピン)が、日本軍玉砕後、現地住民を組織してゲリラ戦を展開していることから、沖縄の遊撃隊もそのような任務を追っていたことが分かる。沖縄での遊撃隊本部の投降は8月15日以降である。


結局、広大な北部の山中には住民と日本兵の散在するところとなり、米軍の掃討の対象となったのであるが、そのなかで、日本兵による惨劇が多発したのは決して偶然ではない。たとえば、本部半島の山中では、住民に下山(米軍への投降)呼びかけをしていた村の指導者(校長)が日本兵のグループによって拉致虐殺された。目撃者の証言によればその日本兵グループのリーダーの名簿にはまだかなりの氏名が記載されており、それらの居場所を問われたという。

大宜味村では、米軍に投降した避難民が無防備の集落に保護されていたが、夜、山中から日本軍のグループが降りてきて、保護されている住民数十名を虐殺した。また、山中で日本兵に出会って食料を強奪された証言は多い。さらには、米軍の収容所に収容された住民の小屋に夜毎山中から現れ、米軍配給の食料を貰ったり、譲り受けたりはまだ良い方で、強奪したり、拳銃や日本刀で脅迫して奪い取っていくこと等が多発した。


北部山中を北上すると、東シナ海上に伊平屋島、伊是名島がある。その島々に渡った敗残日本兵は島の人たちを騙し、小舟を用立て、与論島や沖永良部島に搬送させている。また、本島最北端の村々から直接与論島へ渡った者もいる。その騙しの手口は、軍の命令による応援要請とか、沖縄の状況を伝え本土決戦の教訓にするなどであった。それらの手口は、前述した「国頭支隊」や「遊撃隊」の任務ともつながるもので、彼らが口走った言葉によって関連づけられる。

6 島尻地区(南部地域)で、住民に大きな犠牲が生じた原因
[自衛隊幹部の見解]
ア、戦闘員と非戦闘員の区別が困難であった。
→外見、服装等で一応の区別はついていたが、当時の国民感情(一億特攻)から、老幼男女をあげて軍に協力したため、行動の上で軍人と一般国民とを分離することが困難であった。
イ、住民の敵愾心が強く、米軍の住民処理に疑念を抱き、恐怖心も作用した。
→米軍は、その管理下に入った住民を使用して、非戦闘員と日本軍の分離と投降の勧告に努めたものの、住民は容易にはこれに応じなかった。
沖縄戦を少しでも知っている者は、島尻(南部地域)での住民の犠牲の原因を二つに限定する人はいない。また、二つに限定したとしても上記の二つは決してそのなかに入らない。皮相な捉え方で沖縄戦を解釈し、しかもそれを未来に仮想している戦争時の「住民避難計画」に教訓化しようとしていることに腹立たしささえ覚える。
ア、「戦闘員と非戦闘員の区別が困難であった。」
「戦闘員と非戦闘員の区別が困難」を、住民犠牲の原因としていることは全くの的外れである。南部地域での戦場は先述したような状況であったが、まず、服装による区別が困難ということはあり得ない。ただ、一部服装による区別が困難な状況を作り出したのが二点あった。
一点は、先にも触れたが、強制的な若年及び老年層の動員によるものである。たとえば、防衛隊員として、17歳から45歳までを動員したが、戦局の流れによって年齢の上限下限を無視した動員が行われたこと。そのことによって13、4歳の少年や老人が日本軍の軍服を着用させられたまま米軍に保護された事例がかなりある。


○二点目は、日本軍が敗残兵と化した状況のなかで、次のようなことが起こっている。米軍は、日本兵と住民との区別をしながら攻撃をしていた。そのことが確認されると、日本兵の中にはそのことを逆手にとって、住民から着物を貰ったり、奪い取ったりして、住民に成り済まし米軍の攻撃をさけていた。

 しかも、そのことが日本兵の個々人の行動としてのみならず、公文書として作成され流布していたことが米軍に確保されて、米軍の住民への無差別(日本兵見なし)攻撃となって犠牲に拍車がかかった。つまり、第32軍側からは、住民に成り済まして米軍の保護下に入り、後方攪乱の任務を負う「遊撃隊」に合流することが指令として出ていたのである。

 その経過を示すことがらの一つとして、捕虜(保護)時の米軍の対応がある。米軍は、住民と日本軍の区別を、たとえば、服装をめくって肌の色の白さや沖縄方言に対する反応、地名を聞くなどで判断している。それだけ、日本兵がいかに住民のなかに紛れ込んでいたかを示し、日本軍による意図的な住民成り済ましが住民の犠牲を増やしたことを証明するものである。しかし、それにしても、そのことが南部地域での住民の大きな犠牲の大きな理由とはなり得ないことも確かである。

ただ、「老幼男女をあげて軍に協力した」から「軍人と一般国民」を分離することは困難だったが、それは、以下述べるような事情であって、ここで指摘されているように「国民感情(一億特攻)」からではない。


また、「…行動の上で軍人と一般国民とを分離することが困難」にしても、米軍側からすれば、住民に対しては原則として「保護」の措置をとったが、なかにはこの分析でも触れているように住民が米軍に抵抗して殺害される証言も多い。その理由はすでに触れたのでここでは略するが、自衛隊幹部の考察は結果としての捉え方だけでなんらことの本質はつかめていない。したがって、このような結果がなぜ出たのかを、事実を把握しその原因を捉えたうえで、次のように表現し直す必要があろう。
たたき込まれた国民感情(一億特攻)から、老幼男女をあげて軍に協力させられ、軍民一体化の行動をとらされたので(米軍側からは)分離することが困難であった。
そして、このこともまた、南部地域での住民の大きな犠牲の理由にはなり得ないことも当然である。
イ、住民の敵愾心が強く、米軍の住民処理に疑念を抱き、恐怖心も作用した。
これまでも何度も指摘しているように、自衛隊幹部の考察は極めて皮相的であり、なぜか、という追求に基づくものとはなっていない。「住民の敵愾心が強く」は、沖縄だけでなく、当時の国家による皇民化教育を中心とした、行政やマスコミによる国家的規模の圧倒的な宣伝によって日常的に醸成されていた。そのような背景について触れることなく、米軍への恐怖心は住民が勝手に抱いたような捉えかたでもって、住民避難がうまくいかなかったことの原因にすることは適切ではない。

 「米軍の住民処理に疑念を抱き」についても、日本軍が流した風評を県民が丸ごと信じきったことにその原因がある。つまり「米軍に投降すると男は戦車で敷き殺され、女は強姦されて殺される」の風評である。このことは、第32軍の主要部隊が関東軍(中国侵略軍)からの移設部隊であったことと無関係ではない。中国での皇軍が中国人に行った残虐行為を米軍に重ねることによってそのもっとらしさが醸成されていったのである。そのようなことを一切無視し米軍の投降勧告に対して、「住民は容易にはこれに応じなかった」ということに至っては何をかいわんやである。

7 「住民避難にあたって、着意すべき事項」

[自衛隊幹部の結論]

避難の必要性に関する住民への周知徹底と理解の獲得

避難住民の不安感の除去(避難行動上の安全の確保、避難先での生活上の安定、 財産の保護、家族の分離回避、連絡の確保)

避難に関する早期かつ明確な指示と行動の準拠の付与

避難先での生活、戦闘地域の状況等に関する情報の提供

最も重要なのは、戦闘地域に住民を残さないこと
 その一つ一つがもっともな結論で、内容的には「国民保護法」でうたわれていることと一致する。しかし、沖縄戦のどこからこのような教訓が出てくるのか、大きな疑問を感じないではおれない。これまで述べてきたように自衛隊幹部の分析や考察は沖縄戦の真の実態を捉えていないものであった。


仮に上記の五点が沖縄戦における南部地域の住民避難から導きだされた教訓というのであれば、これらの教訓が生かされていたら沖縄戦における犠牲者は減らされたということになる。そこで、ここでは五つの点について検証してみるが、その前に、用語の確定をしておきたい。
・「住民」とは誰を指すのか。
「住民」=「非戦闘員」か。しかし、沖縄戦では、「疎開」や「避難」の対象となったのは、「住民」=子ども・老人・一部の婦人であった。
・「避難」とは具体的に何を指すのか。
「疎開」も含めるのか。沖縄戦では県外・県内疎開を「疎開」、戦場避難を「避難」と分け、それぞれ異なる内容をもつ。
①「避難の必要性に関する住民への周知徹底と理解の獲得」
 「住民」=「非戦闘員」であれば、この教訓は「疎開」や「避難」ともに生きてくるが、沖縄戦における「住民」=子ども・老人・一部の婦人では、「周知徹底」はできても、「理解の獲得」はできない。仮にできたにしても時間的にかなりの日数を要する。さらに、「周知徹底」にしても、それは「疎開」の段階であって、「戦場避難」ではそれも不可能であった。「避難」場所=戦場であったから。
②「避難住民の不安感の除去
(避難行動上の安全の確保、避難先での生活上の安定、財産の保護、家族の分離回避、連絡の確保)」
ここでも、「住民」=子ども・老人・一部の婦人では、不安感の除去はできない。避難している「住民」=子ども・老人・一部の婦人自体が不安そのものであるから…。
ア、「避難行動上の安全の確保」

第32軍が、米軍の進攻速度が速かったことと前記理由による遅れによって、軍車両の提供はしなかった。したがってほとんどの「住民」=子ども・老人・一部の婦人が徒歩で疎開避難したのである。県外疎開に至っては、九州疎開でも台湾疎開でも軍の護衛つきで何隻かが攻撃沈没している。百歩譲って「住民」=「非戦闘員」であれば「疎開」に限定した場合のみこの教訓は生きてくるかもしれないが、戦場「避難」には当てはまらない。
イ、「避難先での生活上の安定」
「住民」=「非戦闘員」であっても、「住民」=子ども・老人・一部の婦人であっても、食料や居住については軍への供出等でもともと不足であった。また、県外疎開の九州や台湾でも、国全体が戦争体制であってみれば、食料や居住という基本的なことさえ困難だった。これが戦争である。戦争は避難したところが安全地帯というわけではない。砲弾はどこにでも落とされるのである。九州疎開も台湾疎開も県内疎開の北部疎開も結局は空襲等を逃れて再度避難生活を余儀なくしている。

敵味方の動向によって戦場は変化する。また、沖縄戦では日本兵が住民のなかに入り込み複雑化した。戦争の中で「生活上の安定」は砂上の楼閣である。
ウ、「財産の保護」
いずれの場合であっても、生活基盤が戦場になっては保護のしようがない。沖縄戦では、財産そのものが供出させられた。戦後のその補償さえ十分には果たされていない。
エ、「家族の分離回避」
避難対象が「住民」=子ども・老人・一部の婦人ではその意味さえ失う。
オ、「連絡の確保」
時代の相違があるので単純には比較できないが、現在のような通信手段があったとしても、それがどのくらい「住民」=子ども・老人・一部の婦人の不安感の除去になるのかかなりの不透明要素が大きい。たとえば、現在の通信機器は、その多くが電気なしでは活用できない。そのこと一つとっても戦場ではあまり期待できないだろう。ましてや、沖縄戦では、連絡の手段さえほとんどなかったのだから何をか況んやである。しかも、唯一の手段であった信書においては「検閲」制度で本当のことが書けなかったし、電報や無線なんてのは「スパイ容疑」をかけられるのが落ちである。
③「避難に関する早期かつ明確な指示と行動の準拠の付与」
 ①と②が保証されたときにこの教訓は生きてくる。明確な指示や行動の準拠があっても「住民」=子ども・老人・一部の婦人の根底に安心感がなければ指示には応じられないし、また、行動の準拠による行動をとることもできない。沖縄戦の実際では、沖縄を取り巻く米軍の動きが大きな比重を占めた。戦場は自然災害の現場ではなく、敵と味方の武力行使の総力戦の場であることを考慮すれば、この教訓だけを単独に論じることはできない。
④「避難先での生活、戦闘地域の状況等に関する情報の提供」
「住民」=子ども・老人・一部の婦人が避難しているところに、避難所の情報や戦闘地域の情報を提供することだと判断するが、そのことが避難民の不安感の除去になるという感覚が理解できない。まさかどこかの国での戦争のテレビ中継ではあるまいが、避難している「住民」=子ども・老人・一部の婦人に対して、身内(父、母、兄、姉、夫、息子、娘、孫)や友人、知人が死んでいくのを知らせる(見せる、聞かせる)というのか。あるいは、「戦闘はただいまわが軍の優勢であります」ということを流し勇気づけるということか。いずれにしても、「戦闘地域の状況等」の情報が伝わったとしてそれがどう「住民」=子ども・老人・一部の婦人の不安感の除去に結びつくのか、不明確である。
⑤「最も重要なのは、戦闘地域に住民を残さないこと」
 当然のことである。では、なぜ沖縄戦ではそれができなかったのか。別項述べたとおりであるが、仮に、沖縄戦でこの方針が貫かれていたら、あるいは、沖縄戦はしなくてすんだかもしれない。つまり、太平洋諸島等での敗戦で降伏すべきであった。現に、天皇側近もそれを進言したが、昭和天皇は、軍部に引きずられて和平の道を閉ざした。




本来、戦闘は軍隊と軍隊の戦いである。沖縄戦においても、第32軍自体が住民は戦闘の邪魔になると認識していた。しかし、制海権と制空権を奪われ、輸送能力を大幅に減退させた第32軍がとった方針が「現地自活主義」となって、結果として住民を戦場に巻き込んでいったのである。それはなぜか、沖縄戦は沖縄の防衛戦争ではなかったのである。大本営は初めから勝つつもりはもっていない。沖縄戦の大儀は「本土決戦」のための時間稼ぎであったからである。つまり、この教訓⑤が貫かれることは万が一つにもなかったのである。

あえて、沖縄戦の根本的な教訓を一つ挙げるとすれば、「最も重要なことは戦争をしないことである」でなければならない、と考える。


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