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★日本の中のCIAエージェント【政界】

日本の中のCIAエージェント

2112-10-02 11:20:43 資料


【政界】


★吉田茂
幼児に横浜の富裕な貿易商、
吉田健三の養子となり、
東京帝国大学政治科を卒業後、
外務省に入省した。
大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の
長女、雪子と結婚。

天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、
イギリス大使を歴任した。
吉田茂は取り巻く人間を通して、
ロスチャイルドの影響を受けていた。
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を
決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に
関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、
敵米国の駐日大使に通報していた、
日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは
吉田茂。
元自民党総裁=麻生太郎の祖父。

★辰巳栄一 
(1895年1月19日ー1988年2月17日)
コードネーム「POLESTAR―5」

元陸軍中将
戦後の連合軍占領中は旧軍の
反共主義工作機関「河辺機関」を率いた。
警察予備隊の幹部人選に駐英武官当時からの
上司であった吉田茂の腹心として関与。
内閣調査室や後の自衛隊の設置に関わる
資料をアメリカ政府に流していた事が
2009年10月、有馬哲夫・早稲田大学教授の
アメリカ国立公文書記録管理局における
機密解除資料調査で確認された。
1975年1月から1978年12月まで
偕行社会長を務めた。

★緒方竹虎 
(1888年1月30日 - 1956年1月28日)
コードネーム「POCAPON(ポカポン)」

ジャーナリスト、政治家。朝日新聞社副社長・主筆、
自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、
情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、
副総理などを歴任。
栄典は正三位勲一等旭日大綬章。
三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。

緒方は12月にA級戦犯容疑者指名、
1946年8月に公職追放、
1947年9月戦犯容疑解除、
1951年8月に追放解除となっている。
A級戦犯容疑者指名がなければ、
敗戦で社内の緒方派と反緒方派の対立が再燃して
自らも調停に乗り出し、
村山長挙社長が辞任していた朝日新聞社の社長に
就任するはずであった。

追放解除の翌年にあたる1952年10月、
第25回衆議院議員総選挙で
福岡1区(当時)から出馬し、
中野正剛の地盤を引き継いだうえに地元財界の
支持を得て当選する。

第4次吉田内閣で当選1回ながら、
国務大臣兼内閣官房長官、
さらに副総理に任命され、
翌1953年5月成立の第5次吉田内閣でも
副総理に就任した。
この政界での急速な階梯昇段の要因には、
吉田茂の政治指南役だった古島一雄の紹介や、
吉田が重光葵の後任として
東久邇宮内閣外務大臣に就任したのが、
近衛文麿と緒方の推薦によるものだったことなどが
挙げられる。

なお、緒方は政界復帰前の1952年4月、吉田茂、
村井順とともに、アメリカのCIA、
イギリスのMI5、MI6などを参考にして、
内閣総理大臣官房に「調査室」という小さな情報機関を
設立した。
これが現在の内閣情報調査室の源流である。

緒方は、これとは別に強力な情報機関、
いわゆる日本版CIAを新設する構想を持っており、
吉田内閣入閣でこの構想は
一挙に表舞台に登場したが、国会や外務省、
世論の激しい批判を浴び、第5次吉田内閣の下で
内調の拡充・強化を図るにとどまった。
しかし、このときの緒方の動きを、
アメリカCIAは高く評価した。

★岸信介 
(1896年11月13日 - 1987年8月7日)
言わずもがなスパイ。岸の『系譜』の政治家は、
CIAのスパイである。
政治的に岸は日本の歴代首相のだれよりも
右寄りだった。
岸は、APACL(アジア人民反共連盟)、
MRA(道徳再武装運動)、統一教会など、
右翼組織やCIAのフロント組織に
深く関わっていた。

 首相をしりぞいた二年後の1962年9月には、
東京で5日間にわたって開催された
APACLの会合で基調演説を行なっている。
また、日本郷友連盟や祖国防衛同士会など、
民主主義の粉砕と天皇の政権復帰を擁護する
極右団体の顧問もつとめた。
 岸は首相在任中に、日本を訪れた
MRAの代表達に次のように挨拶している。
「諸君は全世界に対して道徳的バックボーンを
与えるようにしておられる。
私はMRAが6週間にわたって
(1960年5月から6月までの期間)
我が国に与えた圧倒的な影響力に対して
感謝の気持ちを表明したい」
時あたかも、
岸打倒を叫ぶ運動がピークに達しており、
MRA代表団の訪日のタイミングのよさには
目を見張るものがあった。

 岸は日本でもっとも反動的な首相だった。
1957年から60年までの短い首相在任中に、
岸内閣は史上まれに見る反進歩的な法案を提出した。
一つは1958年、警察官の権限を拡大強化する
警職法(警察官職務執行法)改正案であり、
もう一つは1
948年に廃止された紀元節の復活であった。
統一教会といえば、CIAの命により
KCIA(韓国中央情報局)が組織し、
操る宗教団体であることが後に明らかになった。

岸と教会との密接な関係を示す一例として
1974年5月、東京の帝国ホテルで開かれた
『希望の日』実行委員会主宰の大晩餐会がある。
『希望の日』とは、
教会の世界的宣伝キャンペーンの
一環の集会名だが、
同実行委員長が岸信介だった。
(『週刊新潮』1974年5月23日号より)>

★ハリー・カーン
ニューズウィークの元編集長。
岸信介の英語の教師。
ハリー・カーンはGHQの「アメリカ対日協議会」
(ACJ)のエージェントだった。
ACJはA級戦犯の釈放、
公職追放された旧官僚の復職、
解体された財閥の復興を仕切ったことで、
戦後の日本に「ジャパン・ロビー」ともいうべき
組織を作り上げていた。その中心メンバーなのに、
その実態は本当に闇に包まれ日本国民には
知られていない。
日本のニューズウィーク編集部は
今でもCIAのたまり場。

★児玉誉士夫 
(1911年(2月18日 - 1984年1月17日)
日本の右翼運動家、黒幕、CIAエージェント。
暴力団・錦政会(後の稲川会)や東声会の顧問で、
これら反社会勢力はCIAの行動隊。

朝鮮戦争(50年—53年)当時、
CIAの前身である米戦略サービス局(OSS)の
旧幹部グループは、
右翼の児玉誉士夫氏らと組んで、
日本の貯蔵庫から数トンのタングステンを
米国に密輸、ミサイル強化のためタングステンを
必要としていた米国防総省に1000万ドルで売却。
これを調べている
米メーン大学教授の資料によると、
CIAは280万ドルを児玉にその見返りとして
提供したという。
アメリカの国立公文書館が公開した
CIA・中央情報局の機密文書に
記されていたものによると、
東西冷戦の初期、
CIAは「右翼の大物」と言われ、
戦犯の疑いで逮捕されたあと釈放された
児玉誉士夫氏や、
元陸軍参謀の辻政信氏らと接触し、
中国など、共産圏の情報収集活動に
当たらせたということだ。
しかし、文書の中でCIAは、こうした試みは、
工作資金を持ち逃げされたり、
情報をねつ造されるなどして
ほとんど役に立たなかったと分析している。
特に、児玉氏については
「自身の富や権力を得ることが目的で、
母国の将来には関心がなかった。
諜報員としての価値はないに等しい」と
酷評している。

★笹川良一 
(1899年5月4日 - 1995年7月18日)
日本の政治運動家、右翼活動家、
社会奉仕活動家。
CIAエージェント。

★中曽根康弘
ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、
中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から
米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」
との要請があったと報告する公文書が
米国で見つかった。
裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると
「自民党が選挙で完敗し、
日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」
という理由。
三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を
言明していたが、
裏では早期の幕引きを図る動きが
あったことになる。
中曽根事務所は「ノーコメント」としている。
 この文書は76年2月20日に
ジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から
国務省に届いた公電の写し。
米国立公文書館の分館である
フォード大統領図書館に保管され、
2008年8月に秘密指定が解除された。
 ロッキード事件は76年2月4日に
米議会で暴露されたが、
ロ社の裏金が渡った
日本政府高官の名前は伏せられた。
 与野党いずれも政府に真相解明を要求。
三木首相は2月18日、
「高官名を含むあらゆる資料の提供」を
米政府に要請すると決めた。
 文書によると、中曽根氏はその日の晩、
米国大使館の関係者に接触し、
自民党幹事長としてのメッセージを米政府に
伝えるよう依頼した。
中曽根氏は三木首相の方針を
「苦しい政策」と評し、
「もし高官名リストが現時点で公表されると、
日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」
「できるだけ公表を遅らせるのが最良」
と言ったとされる。
さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を
「もみ消すことを希望する」
に変更したとされる。
文書には、中曽根氏の言葉として
ローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。
中曽根氏はその際、
「田中」と現職閣僚の2人が
事件に関与しているとの情報を得たと
明かした上で、
「三木首相の判断によれば、
もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、
選挙での自民党の完全な敗北、
場合によっては日米安保の枠組みの
破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。
 文書中、
依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、
大使館関係者の名前は不明だ。
 結果的に、事件の資料は、
原則として公表しないことを条件に
日本の検察に提供された。


★佐藤栄作

2007年に公開された
日本占領中のマッカーサーの諜報活動を
詳述しているCIA文書など
5万点に上る機密解除文書には、
岸信介の弟である佐藤栄作元総理大臣が
米国に対し
「共産主義と戦うためにアメリカからの
財政援助を願い出ていた」
ことが書かれている。
また、佐藤栄作大臣(岸政権下の大蔵大臣)が
当時の
米国駐日大使館S.S.カーペンター大使館一等書記官と
東京グランドホテルで秘密裏に会談し、
資金援助を要請したことが
S.S.カーペンター大使館一等書記官作成の
覚書の中に書かれている。
米国のエージェントであった岸信介総理大臣が
日本国民の反対運動を弾圧して調印した
1960年の「日米安保条約」および
米国のエージェントの佐藤栄作総理大臣が
国民の反対運動を弾圧して調印した
1970年「日米安保条約」は、
調印した二人の日本国総理大臣が
米国に買収されていたエージェントであった
事実が暴露された時点で法的根拠を失い
無効となるのは当然である。
なぜなら外国に買収された一国の総理大臣が
買収した外国との間で調印した条約は
無効となるからである。

★麻生太郎
第二次世界大戦後、
中国とロシアが共産主義国になったため、
日本を共産主義への防波堤に使おうと
米国政府は考えた。
日本が共産主義にならないよう米国は
日本を豊かな国に育て、
また巨大な米軍とCIAを日本に置き、
日本を暗黙の「監視下」 に置いた。
その任務を担ったのが、
初代CIA日本支局長ポール・ブルームであった。
ブルームは
東京の渋谷区神山町22番地に住居を持ち、
その近所には2008年現在の麻生太郎元首相の
生家があった。
当時の総理大臣吉田茂は麻生の祖父であり、
麻生の家で、
CIA日本支局長ブルームと吉田首相は、
日本の経済成長や米軍駐留の政策について
深夜まで話し合った。
やがてブルームは麻生太郎を自宅に引き取り、
自分の「後継者」として、
CIA日本エージェント=工作員として育てる。

★小泉純一郎

小泉純一郎はアメリカの日本属国化の手先である。
郵政民営化、
消費税=法人税減税、
外資による日本企業買収法、
TPPは、
米国の命令によってなされた。
CIAのジェラルド・カーチス(コロンビア大学教授)
その妻・深井翠の父は深井武夫
日本を経済植民地にするためにマスコミに暗躍。
要注意人物。
大学教授、自民民主議員はCIA工作員多い。
小泉純一郎と同じく、日本属国化の手先である。

★竹中平蔵
★飯島勲
小泉元首相の秘書官だった。



★久原房之助 (1869年6月4日 - 1965年)

明らかにスパイ。
衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。
逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、
立憲政友会(久原派)総裁を歴任。
日立製作所創立の基盤となった
久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として
「鉱山王」の異名を取った。
義兄の鮎川義介と共に
「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、
右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。
戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。

明治の政商として活躍、藤田組を
創業した藤田伝三郎は父・庄三郎の実弟にあたる。
なお、庄三郎は伝三郎が「藤田伝三郎商会」
(後の藤田組、現在のDOWAホールディングス)
設立の際には共同経営者として名前を連ねている。

2回結婚しており(最初の妻が鮎川義介の妹・キヨ)、
妾腹の子を含めると
3男10女計13人の子に恵まれた。
長女は元衆議院議長・石井光次郎に、
三女は大隈重信の孫・信幸に、
四女は元東京急行電鉄社長・五島昇に、
八女は元スタンレー電気社長・北野隆興に嫁ぎ、
九女と十女は米国人と結婚している。
孫にシャンソン歌手の石井好子と
元東急建設社長の五島哲、
スタンレー電気社長の北野隆典がおり、
曾孫に詩人・フランス文学者の朝吹亮二が、
玄孫に小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した
朝吹真理子がいる。

★重光葵 
(1887年7月29日 - 1957年1月26日)

第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家。
1943年(昭和18年)11月の
大東亜会議を開くために奔走。
人種差別をなくし亜細亜の国々が
互いに自主独立を尊重し対等な立場での
協力を宣言した。

公職追放解除後、改進党総裁・
日本民主党副総裁を務めた。
鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。
1955年(昭和30年)の保守合同で
自由民主党結党に参加。


★五島慶太 (1882年4月18日 - 1959年8月14日)

1944年(昭和19年)、
東條英機内閣の運輸通信大臣に就任し、
名古屋駅の交通緩和や船員の
待遇改善などに貢献する。
終戦後の1947年(昭和22年)、
東條内閣の閣僚だったという事で
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって
公職追放者指定を受けた。
公職追放後も影のご意見番として
事実上企業活動に参加。
大東急分割騒動の際も、むしろ自ら企業分割を
推奨し大東急再編成の推進役を果たした。
東急電鉄創業者。


★野村吉三郎 
(1877年12月16日 - 1964年5月8日)

日米開戦時の駐米大使。
昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、
外交官、政治家。
和歌山県和歌山市出身。
位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。

終戦後の1946年(昭和21年)8月に、
野村は公職追放となるが、
ACJ(アメリカ対日協議会)の面々は
積極的に野村に近づき、
定期的に(違法ではあるが)食料や煙草を送り、
経済的に苦しい野村の便宜を図った。
メンバーの一人である
ウィリアム・リチャーズ・キャッスルは、
野村を「日本を正しい道筋で、
再び重要な国家となるように再建するのに
役立つ人物の一人だ」と評した。

1953年(昭和28年)3月24日、
同郷の松下幸之助に請われ、
松下電器産業の資本傘下となった
日本ビクターの社長に就任。
空襲による会社や工場施設の焼失
、戦後の労働争議などでの危機的経営を
創生期の親会社で疎遠となっていた
アメリカRCAと技術支援契約を結び
再建の道筋をつける。

追放解除に伴い、
吉田茂の要請で再軍備問題の調査にあたり、
海上自衛隊の創設に深く関わる。
これが縁で1954年(昭和29年)の
第3回参議院議員補欠選挙
(和歌山選挙区)に出馬・当
選し、参議院議員となり、
続く第5回参議院議員通常選挙
(和歌山選挙区)にも当選した。
自由民主党に参加して、
防衛政策を担当した他は、
外交調査会会長を務め、松
野鶴平の参議院議長就任に伴い
党参議院議員会長に就任した。
鳩山内閣・岸内閣で
防衛庁長官への起用が取り沙汰されたが、
日本国憲法における
文民統制の観点から見送りになった。
その後の人事では旧軍・自衛隊の士官経験者の
防衛庁長官も誕生しているが、
当時としてはまだ時期尚早で、
なによりも野村が旧海軍軍人として
大物過ぎたこと、
そして日米開戦時の駐米大使としてあ
まりにも有名でありすぎたことが逆にたたる結果となった。

★佐野忠克

鳩山由起夫政権時の政務担当首相秘書官。
首相秘書官の内訳は、
慣例的に政務担当1名、事務担当4名の計5名で
構成され、それぞれ外務省、財務省、警察庁、
経済産業省の各省庁から
1名ずつ出向する形で就任する。
財務省出身者が事務秘書官の中で筆頭格とされ、
他の事務秘書官よりも年次が上の者が就けられる。

佐野忠克氏は、
1969年(昭和44年)4月 通商産業省入省、
1993年(平成5年)8月 総理府
細川護熙内閣総理大臣秘書官(事務担当)につき、
鳩山総理と接点ができている。

当初、鳩山総理は、
小泉元首相の秘書官だった飯島勲氏のように、
芳賀大輔氏を首相秘書官に
起用する予定だったようだが、
偽装献金事件で潰されてしまった。
だから、旧知の佐野氏に白羽の矢が立った、
ということだ。

平野博文官房長官は14日午後の記者会見で、
鳩山由紀夫首相とともに訪米して
米国に残っている佐野忠克首相秘書官が、
スタインバーグ国務副長官と会談することを
明らかにした。
米国務省「ナンバー2」が
日本の首相秘書官と会談するのは極めて異例。
米軍普天間飛行場移設問題について、
佐野氏は日本側の検討状況などについて
説明するとみられる。
(時事トッドコム  2010/04/14-17:23)≫

また、記事の主旨には賛成できないが、
「現代ビジネス」に
「徳田虎雄との会談を仕掛けた佐野忠克首相秘書官」
と題し、田崎史郎が書いている。

≪ 鳩山が動きだしたのは4月28日、
徳之島出身の元衆院議員・
徳田虎雄との会談からだった。
そもそも徳田と会談したことがまず疑問だ。
徳田虎雄が1980年代に
衆院奄美群島選挙区(定数1)で
保岡興治と「保徳戦争」と呼ばれるほど
激しい選挙を戦い、選挙違反で逮捕者が続出したこと、
徳洲会の病院経営、
彼の政治活動などを多少知っていれば、
接触することにもっと注意を払っただろう。

案の定、会談内容は、
同席した衆院議員の二男・毅からマスコミに公表された。
毅は自民党に所属している。
毅がマスコミに、あるいは自民党に
すべて話してしまうことは容易に想像できたはずだ。
徳田が会談を受けた時、
「これはトラップ(罠)かもしれない」という懸念を
抱かなかったのだろうか。
 
この会談の設定は政務担当の
首相秘書官・佐野忠克を中心に進められた。
・・・佐野は鳩山と徳田との会談を
他の秘書官はもちろん官房副長官・松井孝治らとも
ほとんど相談しなかった。
時期もまずく、住民の反対集会が4月18日に
徳之島で開かれた後では、
地元を説得しようとしてもできるはずがない
日本の中のCIAエージェント
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